2011年07月31日

3月11日、震災後に思うこと−あとがき

連載となってしまいました。


 5回位で終えようと思って書き出した、震災の時に回りで起こった話です。記憶が薄れる前に書いておこうと思ったのが始まりです。
 そして、活躍した人たちの話を形に残しておきたいとも思いました。
このみなさんは、今も何かがあると、支援を続けてらっしゃるようですが、現在では日々の仕事に戻っていると聞きます。
 自分がしっかり生きていないと、困っている人に対して何もできないですよね〜。

 その彼らのうちの誰も、ボランティアの団体を立ち上げるというわけではなく、自分が出来る範囲で行動をし、そして、もう我々の出番は終わりと思うとさっさと引いていく。なんとも潔い終わり方だと思いました。
 
 たまたま、谷中さんと知り合いだったために、私もこの一連のボランティア活動の一部に参加ができて、本当に感謝しなくては・・・と思います。
 そして、たくさんのことを勉強させていただきました。
 
 復興はまだまだだと聞きます。私自身もまた何かできることがあればさせていただければと思っております。

 最後に、リンクもしていない「ほったらかし状態」のブログなのですが、何故か記事を書くと読んでいただいている方がいらっしゃるようで、アクセスも3倍以上になり、驚きました。
 どこで、どうやってこのブログにやってくるのかな?・・・と。思いっていますが、読んでいただき、ありがとうございます。
posted by nanami at 11:07| Comment(0) | 3月11日、震災後に思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月29日

3月11日、震災後に思うこと−O

 女川に行ってからそろそろ4ヶ月になります。瓦礫の山はまだ残っていると聞きます。今でも女川病院から見た景色のことを思い出すと、何とも言いがたい気分になります。

 4月の上旬に物資をもう一度送りましたが、谷中さんからも、もうそろそろ流通も戻ってきたし、救援物資も十分に回ってきているということで、「緊急物資支援活動」はここで終わりにすると連絡を受けました。
 
 今でも、心ある人に「義援金に使って」と現金などを渡されることがあります。私もそれ以降は物資よりも「現金」の方がいいだろうと判断し、自治体が起した緊急災害センターの義援金受付口座に直接送金することにしました。
 自治体が被災者に直接義援金を渡す権利があると聞きましたし、物資を持っていったときに自分自身が被災しながらも、「ありがとうございます」と笑顔でそして、感謝いただいたことが忘れられません。
 私はこういう方たちに委ねるのが一番安心するような気するのです。
 
 その後、こういう活動をした人たちがたくさんいたと聞きました。いろんなところで協力し、助けあおうという心があり、実際に行動に移した人たち。すごいな〜と思います。  
 もちろん活動できない人も、募金を行ったり、寄付をしたりと何らかの形で協力した人がほとんどではないのかと思うとさらにすごいな〜と思うのです。

 そういった活動をされた中に神社本庁があります。いの一番にトラックに救援物資をつめて被災地に向かったと後で聞きました。震災直後は、たくさんの被災を逃れた神社が避難所になっていたようです。
 その神社も多くが津波に流され、2年以内に立て直さないと神社としての活動ができなくなる法律があるらしく、現在どうするかと頭を悩ませているそうです。

 講演会があった時にいろいろと話を聞かせていただきました。その中でも全ての家族を津波でなくした女性の神官の話が印象的でした。
 その方は悲痛な顔をしているわけでもなく、非常に明るく元気だったそうです。そして、その時の彼女の言葉は・・・

 「今さら亡くなった方のことを言っても、もう取り返しはつきません。しかし、私たちは亡くなった方の命を引き継いで、私どもがその苦労を重ねていかなくてはいけない。そのことによって、亡くなられた方の御霊に対して申し訳が立つのです」


終わり




※ここででてきた人たちの名前はすべて仮名です。
posted by nanami at 10:31| Comment(0) | 3月11日、震災後に思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月28日

3月11日、震災後に思うこと−N

再度被災地へ

 私は4月に入りもう一度、仙台に行く機会がありました。この時にはすでに、東北自動車道も一般車が走れるようになっていました。

 この日私たちは谷中さんたちと朝早くに群馬を出ました。車は少なく一般車もあまり見かけませんでした。途中、電気や配線工事用のトラックが群れをなして走っていました。全て新潟ナンバーで、被災地に向けて電気工事をするのだと思いますが、何十台も一緒になって走っていると、圧巻です。

 仙台の田子さんのところは相変わらずで、荷物を受け入れ分配し、運ぶということをしていました。
 そろそろ地震から3週間です。だいぶ落ち着いてきのではないかと思っていましたが、瓦礫の山はそのままです。その瓦礫の間の道路を掘り起こされ、道にまたがっていた障害物はさすがに片付けられていましたが・・・

 今回は、荷物の分配を終えた後に、石巻と女川方面に行くということでした。幹線道路も普及してきたので、被災地にはその友人や親戚の人達の往来が多くなるだろうと予測していましたが。石巻に通じるバイパスはとんでもない渋滞でした。

 なんとか、石巻に到着。2〜3箇所で荷物を降ろし、海岸線を走り女川へ。
海岸線は魚の腐乱する臭いが漂っていました。まだ4月、ダウンジャケットを着ていましたが、この悪臭は夏に向かっていくとどうなるのだろう。それまでに処理できるといいなと思っていましたが、「その量たるやハンパじゃないだー」と田子さんの説明。

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谷川さん、田子さんと石巻市

 女川の町は両側が山になっておりその間の少ない平地を利用して街が作られているところです。街は壊滅状態なので、崖の上にある女川病院の駐車場で待ち合わせをするということでした。

 病院は崖の上16メートルに建てられています。駐車場から街を見下ろした時は、誰も言葉を発することができませんでした。何とも言いようがありませんでした。どんな言葉をはいてみたところで、陳腐にしか聞こえないだろうと皆意識の下で思ったのではないかと思います。私たちは無言で作業を始めました。

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女川病院から見た女川町

 そこへ現れたのが、細井さんです。津波の時の避難勧告を聞き車に乗りとりあえず山の方へ逃げようとして、振り返ったら「家」が追っかけてきた。それを見た途端必死になって車を運転し間一髪で逃げ切ったということでした。

 津波の後、自衛隊が様子を見にきていたそうです。津波に流されたところは道も埋まっていて入ることができない。ということで、建築関係の仕事をしている彼は次の日から自衛隊と一緒に必死になって道を掘り起こしていたと言っていました。その為に、田子さんとも連絡も出来なかったと・・・。

 ここ、女川病院の駐車場は女川の街が見渡せます。その向こうに広がる太平洋も見渡せます。地震後ここに非難してきた人がたくさんいました。崖の下にいる人に向かって「逃げろー。逃げろー」と叫んでいたそうです。
ですが、津波はここの駐車場よりも高く、叫んでいた人たちも全て飲み込んでしまったということでした。

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間一髪で津波を逃れて道路復旧に貢献した細井さん

つづく
posted by nanami at 18:22| Comment(0) | 3月11日、震災後に思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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