2011年07月17日

3月11日、震災後に思うこと−D

 仙台の田子さんに救援物資を届けた谷中さん。その日のうちにとって返して、群馬にもどったそうですが、次の日にまた救援物資を届けることとなったそうです。2度目に田子さんの事務所に行くと、山と積まれていた物資がスッカラカン。


 「どうしたんですか」
 「うぅ〜ん、皆にね、持っていってもらって〜」

 田子さんにはたくさんのバイク仲間がいて、困っている人達に谷中さんからいただいた物資を分けたということ。そして、情報を探っていくと、沿岸部に困っている人が山のようにいるということがわかり、物資を届けるようになっていったそうです。

 その頃は沿岸部の道は瓦礫で埋まっていて、大きなトラックだとまったく通ることが出来ないので、ハイエースや1トン位のトラックで荷物を小分けにして、行ったり、着たり、道なき道をそれこそ右往左往しながら進んでいく。

 やっと避難所に着くと、真っ暗な中に人々が重なりあうようにして、横になっていたそうです。照明がないから、暗くなると寝るしかないということ。その避難所のその日の食糧配給はおにぎり半分だけ。
 
「ありますよ〜。お米、煮炊き用の炭、女性の生理用品置いていきますから〜」
 とそんな話をしていたら、そこの避難所の代表なような人が来て、
 「ここの避難所は間に合ってますから」
 「ちょ、ちょちょ、ちょっと待ってください。今日みんなご飯掌に半分しか食ってないんでしょ」
 「自治体の方から言われてますので」
 と命を救うと思っていた救援物資が断られてしまったそうです。そこにいた、女性の方が、「この先のお寺に150人くらいいるので、持っていってください」と耳打ちされ、唖然としながらもまたまた、道なき道を行く。
 

 そのお寺では、被災者がみんなお礼を言いながら、そして、涙を流しながら車から箱を降ろしてくれたそうです。
「ありがとうございます」「ありがとうございます」
決死の思いで運んだかいがあった〜と、その時物資を運んだ何人かの感想。

 また、他の避難所では、救援物資はまったく届いていなかったそうです。5人位のチームを作り男性は昼間、明るいうちにもちろん徒歩で食べ物を探し歩き、女性はそこで出来る仕事をしていたという所もあったそうです。

つづき
posted by nanami at 10:22| Comment(0) | 3月11日、震災後に思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月16日

3月11日、震災後に思うこと−C

 交通機関、通信機関、生きていく上のライフラインなど、文明の利器が一瞬にしてなくなってしまうと「途方に暮れる」という言葉がこの時ほど真実味が出てくるのではないかと思います。本当に動いていて当たり前のもの動かなくなると、それがどういうことか理解できないのです。

「早くどうにかできないの〜」という声があちらこちらから聞こえましたが、どうにかしたくても出来なかったというのが震災直後の実情だったと思います。

 通信網が切断されたために、どこにどれ位の被害があったかなどの把握に困難を極めた。自衛隊などがヘリコプターを飛ばしかなりの人名救助ができたと思いますが、空から見えないところなども多々あったと思います。

 自治体そのものが津波にあっている場合、さらに出来ることが限られていったのではないでしょうか。小さな避難所に集まっている人達は、交通機関が分断したために、被災者が外へ助けを求めに行くこともできない。誰かが救援してくれるだろうと思ってもなかなか誰もどうにもしてくれない。などなど。

 逆に手を差し伸べたいと思っている人も、交通手段がないし、何をどうしたらいいのかもわからないということがあったのではないか…と。

―――――――

 仙台の若林地区でカスタムバイクの製造販売をしている田子さん。その社屋の一階にも津波が襲ってきました。津波の高さは20センチ位で、そんなに高くはなかったので幸いでしたが、外に出ていたバイクは流され、回りの田んぼに突き刺さり、少し離れた彼の住居の一階部分は全て水につかり、半壊してしまったそうです。幸い家族は無事だったそうです。

 群馬に住む谷中さんは震災後すぐに田子さんに電話を入れたところから、この救援物資を運ぶ活動が始まることとなったそうです。

 「いやぁちょっと手伝ってくれよ」
 「わかりました。時間のある者何人かで、物資を積んで行きます」

そう言って、積めるだけの救援物資をトラックに積んでから、警察に寄り、

 「今から、仙台に行かなくてはいけないんです。大変なんですよ」と救援車両の認定を受けて、東北道をひたす
ら仙台に向かったそうです。
 その頃の東北自動車道は仙台に近づくにつれて、ガタガタがひどくなり、20cmの段差もあったそうな。早くいかなくてはとスピードを出し、パトカーを追い抜いた時、

「気をつけて行って〜くだ〜さ〜い」と背中のパトカー。

つづく
posted by nanami at 10:33| Comment(0) | 3月11日、震災後に思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月15日

3月11日、震災後に思うこと−B

 不思議なもので、名古屋へ向かう私の目的が「逃げる」から「人助け」に変貌すると、人や物資が集まってきました。
 
 「20日のイベントどうしましょう。決行しますか?中止しますか?」
 あらゆるイベントやセミナーが中止となっている中で、私も自分が関わっているセミナーをどうするかということで電話をすると同時に、
 「被災地では、物資が足りなくて小さな避難所では今にも餓死しそうだそうです」
と話をしていると、じゃぁと言って声をかけてくれたり、また、別件で話をした相手が物資を集めて被災地に送る団体を作ることとなったり。

 私はそのようにして人が動いていく渦の中で唖然としながらも、人って本当に困っている人に対して何かをしたいという協力精神がすごくあるものだなと感嘆したのです。

 それから、名古屋近辺で購入できるもの、必要とされるものを谷中さんと相談しながら、購入、発送していきました。そうこうしているうちに、講演会を全国で開いていた先生がメールで今物資が必要よ!今はコレが必要よ!とたくさんの人に呼びかけていただき、全国の目に見えない、慈悲の心のある人たちがこぞって、救援物資を谷中さんのところに送る手配をしていただくこととなり、谷中さんは11トントラックを満載にして物資を何度も運ぶこととなったのです。

  一人でスーパーにカゴいっぱいレトルト食品を買ったとしても、それは避難所一つ、半分人達用の一食にすぎないと思いつつも、それが何十人もの人たちが参加することによって、少しはお手伝いできるのかな・・・と。

 物資を送っていただいた方の話を聞くと、東北の人たちが大変なこととなっていて、何かしたかったという気持ちはあったけど、何をしていいかわからなかった。市役所などの公的機関に聞いても、物資の募集はしていなかった。谷中さんに送ると、確実に物資が困っている人に届くと聞いて、嬉しい。などなど。
 
つづく
posted by nanami at 10:35| Comment(0) | 3月11日、震災後に思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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