2011年07月20日

3月11日、震災後に思うこと−G

 避難所へ物資を持っていく時は何でも持っていけばいいというものでもありません。そこには当たり前のように需要と供給の法則があります。たくさんのボランティアの方たち、自治体、県、国、自衛隊、警察、消防などさまざまな人たちが被災された方たちそして、被災地への救援を行っています。行政では、横の連絡が取れているのかどうかはわかりませんが、少なくとも、ボランティアで動いている私たちは、他との連携は取れません。取りたくても誰がどう動いているのか、さっぱりわからない状態です。

 昨日は、お米が必要だったところが今日はもういらない。毛布が足りないといううわさを聞きつけ持っていったらすでに余っている状態であったり、日によって、時間によって、必要と思われるものが違ってくるのです。

 さらに、日を追うごとに必要なものが変容していきます。
 ですが、その頃常に必要と思われたものは、食べ物でした。

 この日私たちは、物資を排出した後、最後の救援物資をハイエースに詰めて気仙沼そして、陸前高田に向かいました。すでに暗くなっていました。

 気仙沼市までは、スムーズに入ることが出来ました。街も変わったところがなく女性が二人歩いていたので、陸前高田へどのように行ったらいいのか聞くことにしました。

 「すみません〜、陸前高田にはどうやって行くといいの?」
 「あっちですけど、道は潰れてしまっているから、バイパスを通るといいですよ」
 「お姉ちゃんたち食べ物あるの?」
 「・・・・・・、そこの自動販売機にジュースを買いにきたんだけど、昼間は街の人達、食べ物を探して町中を歩いています」

 東京でさえ、スーパーに食料品が消えたのだから、ここ気仙沼だとなおさらなのです。流通がストップしているせいなのか、食品も入ってきません。田子さんは、「みんなで分けて。これでしのいで」と車の中から、インスタントラーメンの箱を彼女たちが手に持てるだけわたしました。
 
 そこから少し走るとそこは津波の被害を受けた地域です。夜なので車のヘッドライトだけが頼り。街いっぱいの瓦礫の山。なんとか、道を抜けてバイパスに出てそこから、陸前高田に向かいました。

 そして、やっと陸前高田の街に着いたと思ったら橋が流されていました。街の中に入っていけません。瓦礫の中を行ったり来たり。この道は続いているのか、行き止まりなのか、さっぱりわからない。あと少しなのに・・・

 しょうがない、どうしようもないので、今来た道を戻りました。戻りながら田子さんが電話で道順を聞いています。どうも、一度内陸に向かって走り、そこで橋を渡って戻ってくる方法しかなさそうでした。
 電気が通ってないので、街灯はなく、暗い夜道を勘で走ります。

 「あれ〜、道間違ったかな〜」と言っていたら、ピンク色のパジャマを着たおばさまがヘッドライトに浮き上がりました。よかった、道順を聞こう。
 「すみません〜」
 「あんたたち!どういうつもりなの、私たちこんなに大変なのに、こんな車で入ってきて、いいけげんにしてよ!」

 と叫びながら言いたいことだけ言って走り去ってしまいました。
 車に乗っている私たちはボーゼンとして、一瞬何が起こったのか理解できませんでした。
 
 相当ストレスがたまっていたんでしょう。・・・と。田子さんは「食べ物あるの〜?」と聞く暇もなかったということ。

 気を取り直して、陸前高田へ。やっと市内に入っても、行ったり来たり、避難所の場所を教えてもらい、災害対策本部に到着することができました。

 ここの本部では、持ってきていただくものは何でもありがたい。と車に積んであったもの全部を下ろすこととなりました。

 すでに夜でしたが、そこにいた方たちみんな、災害本部の人達、自衛官そして、我々みんなで荷物をおろしました。

つづく

仙台市の様子左から
■この車は新車です。■自衛官が救援活動中■倉庫に大型トラックが
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posted by nanami at 10:07| Comment(0) | 3月11日、震災後に思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月19日

3月11日、震災後に思うこと−F

 この日は11トンのトラックと谷中さんが乗るハイエースの2台で仙台に向かいます。私がハイエースに乗り込むと、ガソリンの臭いが充満していました。東北自動車道のスタンドではガソリンが販売されていますが、仙台市内に入るとガソリンを入手するのが困難となるので、ガソリンを積んでいたのです。
 その他の荷物は、全国から集まった食料、お米、煮炊きの道具、レトルト食品、おむつ、洋服、毛布、石油ストーブと灯油などなど。

 一度栃木県で高速を降り、そこでも荷物を積んで仙台の田子さんのところへ到着したのが11時頃。雪がちらつくまだまだ寒い日でした。津波が押し寄せたほぼ最終地点となる田子さんのお店の周りは、大変埃っぽい。その頃は津波と一緒に流されてきた残土が乾いて風に舞っていました。

 後日談ですが、防塵用の丸い形状のマスクをして作業をしていましたが、たった1日しかいなかったのに、次の日には顔がマスク型に荒れて、吹き出物が出てしまい、ひょっとこのような笑うに笑えない顔となってしまいました。砂埃だけでこんなことにはならないはずなので、空気にさまざまな物質が含まれていたのではないでしょうか。

 隣に田んぼがあるのですが、遠く見えるのは田んぼに突き刺さった車でした。

 荷物をお店の前に降ろして、ダンボールを運び荷物の仕分けが始まりました。さまざまな形で荷物が梱包されているので、いちいち開けて確認し、オムツはオムツで、食料は食料と分けていきます。
 田子さんが荷物を見ながら、
「下着は取り合いのケンカになるんだよね」
「電池も見つかるとケンカだね」
とブツブツ言いながら、指示を出しています。

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上から順に■トラックから荷物を降ろすところ■お店の前の救援物資の山■午後3時には運ばれいった

 私の担当は洋服と下着。被災地では古着は受け取ってくれません。衛生上の理由ということです。ですが、ダンボールから出てくるのは、ほとんどが古着でした。綺麗なものもたくさん入っていましたが、毛玉がたくさんついたどうみても廃棄処分というものもあり、人の価値観の違いをまざまざ見た気がします。
 
 午後からは、地元の人たちが押し寄せてわ〜と、仕分けをし、それぞれの小型トラックに積み込んで荷物を運んでいきました。
 
 震災から一週間、まったく知らない人たちがお互いの意図に共感しアッという間に行動を起こし流れるように物資が避難所に運ばれていきます。民間の集まりだから、何千人もの人たちをカバーするような物資は供給できませんし、焼け石に水でも石の温度が少しの間、下がるのかもしれません。それぞれが、そんな思いを持ちながらお手伝いをしていたのではないかと思います。
 
つづく
posted by nanami at 10:24| Comment(0) | 3月11日、震災後に思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月18日

3月11日、震災後に思うこと−E

 名古屋に来て3日目、宿泊先の友人はロミロミマッサージ教室、とマッサージを提供するお店をしています。東北大変だよ〜と話をしていたら、ここでも大変お手伝いいただきました。教室の人々に声をかけていただいて、物資の買出しから緊急にミーティングを開いていただき、そのミーティングの参加料を物資の購入費に当てていただくこととなったり。

 そうこうしているうちに、講演会活動をされている先生が全国にお声をかけていただいたき、谷中さんに直接物資を送ってもらうようになっていきました。谷中さんもその人脈を通して、呼びかけ、さまざまな形でドンドンと物資が集まっていくこととなりました。

 そんな状況の中私たちは、仙台に行き、救援物資の仕分けや届けるのを手伝おうということとなりました。
仙台まで行くにはどうしたらいいだろうか。仙台に向かうには、国道○号線をひたすら登っていくか、東北自動車道を行くかという選択がありましたが、その頃は東北自動車道は緊急車両しか通れない状態です。私たちは、一度群馬に行きそこから、谷中氏の車で仙台まで連れていってもらうこととなりました。
 そして、もうひとつの問題はガソリンでした。3日目ともなると、名古屋近辺でも購入制限をするお店が増えてきました。東京の友人に聞いても、関東ではガソリンが手に入らないとのこと。ガソリンの携行缶はどこに行っても売り切れ状態。加えて、ガソリンスタンドでは、携行缶へや給油できないと言われます。
それでも何とか携行缶を見つけ、朝早くセルフのガソリンスタンドに行き、ガソリンを詰め、震災から1週間ほどたった頃群馬に向かいました。

 途中首都高を通ったのですが、今までに見たこともないように道が空いていて、そこから見える町並みには活気がなく死んでいるようなそんな印象でした。

 群馬で一泊、次の日の朝4時まだ暗い中を仙台に向けて出発しました。

つづく
posted by nanami at 14:26| Comment(0) | 3月11日、震災後に思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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